00.義務と権利
耳が熱いなと思う。視線をどこに向けてよいのかわからない。どうしたものかともぞもぞ動き、ピザの箱を開き、サラダとポテトをかぱーんと皿に移してフォークと箸を出す。
「ケチャップと、マスタードと、ドレッシングと」
呟きながらふらりと立ち上がり、冷蔵庫からあれこれ取り出して、テーブルの上に並べていく。飲み物はペリエにした。『ピザは炭酸飲料と一緒に』は、あまねのマイジャスティスだ。最近はカロリーやら糖分やらが及ぼす作用に配慮して、黒くて甘いあの炭酸飲料は泣く泣く我慢しているが。
「どぞ」
来訪時から変わらない姿勢で座ったままの彼の前に、大きめの取り皿と小さめのフォークを置く。
「うち、デザート用のやつしかなくて」
あまねは「食べ難かったらごめんなさい」と軽く頭を下げ、彼が何か言う前にピザに齧り付いた。二口食べて皿に置き、ポテトに手を伸ばす。少し冷えてはいるものの、チーズはまだみよんと伸びるし、ポテトはさくりとした食感を残している。これならばまだ、お客様にお出しできるレベルだと言えよう。
お客様。その言葉を、二枚目のピザを手にしたままであまねは反芻する。
はたして彼は、礼を尽くすべきお客様と言えるのだろうか。壁掛けタイプの時計は【20:48:22】と時刻を告げていて、正確無比のこれが間違いのはずがない。あまねは人との交流が少ない、いわゆる『おひとりさま』生活を長く続けているけれど、常識は人並みにあると信じている。彼女の常識の中で、現在時刻は人様のお宅を訪問する時間をとっくに過ぎている。それが面識もない他人で、しかも異性であれば非常識この上ない話だ。たとえそれが、事前に『適宜』来ると知らせのあったマンションの管理人であっても、である。
「あの」
「何だ」
どくどくと鳴る鼓動は、ほんの少し前に感じた胸の高鳴りとは違う種類だ。頑張れ小市民、負けるなあまね、ピザを反芻したら負けだ、と自分を勇気付け、それでも顔は上げられず俯いたままでぼそぼそと喋る。
「事前にお知らせがあったとはいえ、少々非常識ではございませんか。確かに担当の方からは『適宜いらっしゃる』と伺ってはおりました。でもですね、どんなことにも適した時間ってものがあるじゃないですか。そりゃ当然、日中は部屋に居ない方々もたくさんいらっしゃいますよ。お仕事だとか、プライベートだとか。でもだからってですね、初めて顔合わせするっていうのにこんな時間はいかがなものかと思うのですよ。もちろん貴方の言い分もあるかとは思います。ですがこの世の中、権利だけを声高に主張するってのはいただけません。義務を果たしてこそ権利は得られるものじゃなかろうかと私は思うのです。この場合の権利は、私にとってはここでまったり寛ぐことで、貴方にとってはより良い生活を保障するために聞き込み調査を行うことでしょう。で、義務はというと、私は貴方のために時間を割くべきであるし、貴方は相手の立場に立って聞き込みの時間を設定すべきかと、考えるのですが、違いますでしょうかね」
ここまで言い切って、あまねはふひ、と息を吐く。意外にも、管理人は口を挟む様子もなく静かに聞き入っているらしい。まさか寝たんじゃなかろうか、もしくは帰って下さったのか。不安と期待を込めたあまねが視線を僅かに上げる。やはり彼は同じ姿勢のままでそこに居る。ただ、細めた目と眉間の皺が恐ろしい雰囲気を醸し出しており、あまねは慌てて視線をピザの耳に戻す。
――び、美形って、怖ぇええええ!
彼の視線は、虫眼鏡の如き役割を担った綺麗な目で以って細められ集光されてあまねを焼き尽くさんとしている。なまじ元の眼力が凄まじいだけに威力は半端ではない。運悪く、あまねの髪は美容師さんも驚きの真っ黒だ。不幸は重なり、本日の服は上下とも黒ときている。つまりはどこを睨みつけられても……焦げる、だろう文字通り。
「お前の考える、適した時間、とは何時頃のことだ」
地面から5mmばかりしか浮いていないような声で彼がのたまう。あまねはテーブルから10cmばかりしか体を出さないくらいに小さくなって答える。
「人によって違うとは思いますが、早くて朝の9時、遅くとも夜の7時までかと」
「その時間帯は部屋に居ない者ばかりだ。私も仕事をしている」
「はあ。仰るとおりでございます。事実私も朝は早ければ7時半、夜は8時頃まで仕事があったりもします。そんなときはもっと、何と言いますか、細かく時間を指定してはいかがでしょうか」
「細かく」
「はい。各部屋にこう、お手紙を配りまして」
「文面は」
「ええと『拝啓 紅葉の候○○様におかれましては益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。予てよりお願いしておりましたルール制定に関する調査についてご案内申し上げます。つきましては○月○日○時より○分程お時間を賜りたくお願い申し上げます。ご都合の悪い方は○○迄ご連絡下さいませ。お忙しい中大変恐縮ではございますが、住み良い住まい造りの為ご協力頂けますよう、重ねてお願い申し上げます。 敬具 管理人○○ ○号室 ○○様』みたいな感じで、いかがでしょうか。というか、文面は私なんぞよりも管理人さんが考えた方が」
「ペンはあるか」
「ペンはこちらにございますが、紙、紙は」
「これを使うから良い」
そう仰る彼の手にあるのは、ピザをちゃんと届けたからね、という書類である。確かにそれは裏面が真っ白で、且つペン先の走りも良い上質紙ではある。しかし表面はあまねの個人情報で埋まっており、彼女としては勘弁して欲しいところだったのだが。
「読めん」
「え。読めないの? ……ですか?」
あまねは、使って良いだろと言い切られたことよりも、管理を任されている人間が漢字とひらがなを読めないことに驚いた。外国人だから仕方ない、なんてちっちゃい話じゃねーですよマジでと思いながら彼を見て、その目がどこを追っているのかを知り、
「ああ、それは読めなくても仕方ないです」
あまねは口に出さなかった言葉を心中で撤回した。
「読める人、今までいなかったんですよ。ええと、これ、辰田って書いて【ツバキザカ】って読みます。姓が読み難いから、って理由で名前をひらがなであまねって付けてくれた両親には感謝してます。でも今度は住所まで読み難くて。いや、住まいは自分で決めたので悪いのは自分なんですけど。でも八町と書いて【スエヒロマチ】と読むとか、もうなぞなぞ、とんちのレベルですよね」
「ツバキザカ・アマネ」
あまねが喋っている内に領収書を引っ繰り返し、さらさらと筆記体で何かを記していた彼がゆっくりと言う。二度、三度と、彼女を呼ぶような声色ではなく、彼自身に記憶させるようなそれはやはり低かったけれども冷たさは感じない。というより、たいそう良い声で甘くていかがわしくもあって腰に来そうなアレとか、ともかく聞き続けるのは拙そうだとあまねのセブンセンシズが告げている。
「はい。外国風に言うとアマネ・ツバキザカ、ですね」
わざわざ言う必要もないことを胸を張って言い、彼の声を遮る。それからあまねは、数週間前に一度だけ見て聞いた管理人の名前を思い出すことに専念し、煩悩だの官能だのを脳内から追い出した。
――ヴィ、ヴィン。ヴィンなんとか。クロイ、クライ、なんとか?
頑張って頑張ってこの程度かよと、あまねはがっくり肩を落とす。長ったらしい名前だったのは覚えていた。それと、担当女史が笑顔で言っていたことも。ミドルがうんたら、ラストがかんたらで、どっちかが短かった気がして、ミドルが、ミドルネームが――
「――カ、イ?」
「……出来たぞ」
手を止めた彼があまねの眼前に領収書、だったもの、を突き付ける。びっちりと裏面にしたためられたそれを眺め、あまねが彼に言う。
「読めないです」
「存外に、阿呆だな」
彼から返されたのは冷めた目と言葉である。えーなにそれさっき私が読めないのは当たり前ですってフォロー入れたのになんなのこのひと、とは思っても、口にはしない。
彼が顎の下で手を組み前屈みになって、薄い唇から本日一長いお言葉を紡ぎ出す。
「お前に文面を訊ね、その後に筆を執った。ここから内容は推測出来るだろう? 文字が読めずとも、私はこれまでの話振りからお前が馬鹿ではないと確信している」
違うかアマネ。
* * *
そう言った彼は、しかめっ面をしているあまねに視線の高さを合わせたらしい。あまねがそのことに気付いたのは、彼が長い指を伸ばし「口を閉じろ」と彼女の唇を抓った後で、彼が椅子から立ち上がり「長居をした。帰る」と言う前だった。
「次回はその日、その時刻だ」
これは土産として貰っていくぞ、と言い残し彼が去る。
残されたものは領収書の裏に書かれたお知らせ文章と、小さいフォークと、大きな靴跡と、ピザとコーヒーの残り香と。
「だから、コレ、読めないってば」
多くの疑問と不平と不満と胃痛と口唇痛と、それはそれはたくさんあった。だからまだあまねは、彼に持って帰られたものの大きさに気付いていなかった。
大きな皿に取り分けたピザ数ピースだとか、お気に入りのマグカップに入った豆から淹れたコーヒーだとか、彼女の平穏な日常の一部だとか。
「……悪夢だった……」
そう呟き、冷や汗で滑る手で押さえた、胸の奥の奥のどこかだとかいうことについては、全く。
大したおもてなしも できませんが
本編
00 義務と権利
01 ポスティングサービスに関するお願い
02 愛玩動物との生活
03 ゴミ問題について
04 騒音被害
05 チカン、ダメ、絶対
06 ポスティングサービスに関する疑問再び
07 義務の放棄と権利の失効
08 退去時は30日前までに不動産会社までお知らせ下さい
09 またその際ライフラインは退居後に停止することを推奨致します
10 大したおもてなしもできませんが
あちらの世界はというと