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00.義務と権利

「と、いうわけでして」

 大家も初めての賃貸住宅経営ということで張り切っています。そう話す不動産会社社員は、いつも穏やかな笑顔で出迎えてくれる妙齢の女性だ。会うたびにあまねは、接客業界の鑑だよねぇ、との賛辞を心で送っている。声に出して伝えたいけど恥ずかしい、でもいつか言うんだ、と、そんなあまねの熱を孕んだ視線を受け止めながら、担当女史はゆっくりとした口調で話し続けている。内容は、物件の大家がどれだけこの物件管理に誠心誠意当たっているかということと、それに至るまでの経緯のようである。

「なるほど」

「ええ。ですから入居希望の皆様にお願い、として言伝を預かっております」

「言伝、ですか」

「はい。住み良いルールが決まるまでの間適宜管理人が訪問します。お手数ですがご協力の程宜しくお願いします、と」

「管理人、さんですか」

 ゆっくりと頷く担当さんの髪には天使の輪ができている。完璧なキューティクルを保つにはどれくらいの手間、そして諭吉様が掛かるのだろうかとあまねは思う。

「先程も申しましたとおり、大家は長年海外で生活しておりまして、今物件も外観、内装共にモダン建築となっております。また、管理人とも海外で知り合ったと話しておりました」

「と、いうことは」

 どうぞ、と勧められた紅茶を一口飲み、あまねは喉を鳴らす。

「はい。ここに名前が記載されております。――それでは、辰田様の印鑑はお名前の横と、この書類の間、それとこちらにお願い致します」

 担当女史のポリッシュ輝く指が、契約書類の末尾にある小さな文字を指し示し、すぐにすっすっと動いていく。
 Vincenz Kreutzer

「ええと……ヴィ、ヴィンセンツ?」

「ヴィンツェンツ・クロイツァー」

 ドイツ出身ですよ、これでもミドルとラストは省いて記載してあります、と笑う担当さんに何ら非はないけれど、あまねは内心「そりゃねぇよ担当さん!」と叫んでいた。印鑑を手にしたまま固まるあまねを前に、担当女史はいつまでもにこにこと微笑んでいた。



 * * *



 腕を組み、冷ややかな目でこちらを睨み付けている訪問者を見ながらあまねは縮こまっている。担当女史の笑顔が恋しいなと思う。

「粗茶ですが」

 というか、茶でもございませんが、ともごもご伝え、コーヒーを差し出す。ちらりと視線は動いたものの、彼の腕はぴくりとも動かない。

「あの、ええと、本日はわざわざお越し頂きまして、誠にありがとうござ」

「口上は要らん」

 コーヒーを差し出せば無言で流し、話し掛ければ遮られ。この威圧感は一体なんなの、私が何をしたってのよ、とあまねは憤る。が、小市民代表を自負する彼女はそれを顔に出さない。ただ「ひぃ」と、小さく悲鳴を上げ、身体が更に縮こまるのは意思の外、反射である。
 時計の針がちくたくと鳴る音だけが響き渡る、とでも表現できればまだ救いがあっただろう。時間はアバウトではなくジャストを知りたいと考えるあまねは常々電波時計を愛用しており、つまりはどれだけ時間が経とうとも音が鳴らない。テレビはつけていない。そもそも買っていない。加えて言うなら、PCのバックブラウザで某動画が一時停止してあるものの、プレミアム会員登録したそれは時報機能を切ってある。携帯に着信が入るなんて奇跡を願うようなことであるし、唯一音を出せる呼吸だってこのブリザード視線の真っ只中では今にも止まりそうだ。
 無音、無言、ぴんぽん、無言。

「おい」

「ひゃい! はい! なにか!」

「あれを止めて来い」

 僅かに視線を動かして彼が言う。あまねは、アレ、あれとは何ぞやと彼の視線を追ってようやく、来客モニターから音がしていることに気が付いた。

『タツタさーん。デリバリーピザのコメボーノでーす。タツタさーん』

「聞こえているのか? さっさと止めて来い」

 何とも福々しい音である。あまねはこくこくと頷きモニター前に走り「今すぐ開けます!」と叫んだ。配達員の青年が若干腰を引いた気がするがそれどころではない。

「その自動ドア開きましたよね!? 奥までまっすぐ進んで突き当たりのエレベーターの左隣106! いち・まる・ろく号室ですよお兄さん!!」

 ひくりと口角を上げた青年がモニターから消え、二呼吸後にドアホンが鳴る。

「ピッ、ピザのデリバリー、コメボーノ、でっす」

「心の底からお待ちしておりましたあぁっ!!」

 息の荒い青年から商品を受け取り、汗でしんなりしたお札を涙目で渡してあまねが告げる。

「ホント……本当にありがとう。これからピザは絶対にコメボーノさんで買います。贔屓にします」

 深々と頭を下げたあまねの言葉は嘘偽りない本心からのものだ。それが青年に伝わったのだろう。引き攣っていた彼の顔が少し緩み、ややあって自然な笑みが浮かぶ。

「はい! あざーっした!」

 ぺこりと頭を下げた青年が居なくなるのを見届けてから、あまねは殊更ゆっくりとダイニングを振り返った。身も凍るような恐怖から逃れられたのは一時だけだ。懸案事項はいまだ健在で、困ったことにひとつ増えてしまったようである。あの扉の向こうと、彼女の手の中と。

 ……
 【お届け先】
 【フリガナ: タツタ アマネ】
 【お名前:  辰田  あまね】
 【ご住所】
 ……

「やっぱり、名前、違うね」



 * * *



 扉を開けたら帰ってないかな、なんて、そんなファンタジーな展開は勿論なかった。

「遅い」

「も、申し訳ございません」

 両手に抱えたピザの温かさが染み入るなぁとあまねは思う。それからこれを息切らせて運んでくれた青年の笑顔を思い出す。

「あの、ですね」

 声は掠れて震えてみっともなかったけれど、あまねは顔を上げ、異国人の目を見て言う。

「さっき、注文したんです。置いておくと冷めちゃうので、一緒に食べませんか」

「要らん」

 予想通りの答えに若干ヘコみつつ、それでも負けじと言い募る。

「食べま、しょう。管理人さんは、他の方にもお会いしなければならないでしょうし、お忙しいとは思うのですが、食べながらでもお話しは、できるかと思う、次第でありまして」

 段々と語尾が小さくなっていったのは、彼の冷たい視線に耐え切れなくなったからではない。むしろ彼の表情からは、あまねが言葉を続ける毎に少しずつ険しさが削れていった。そうして入れ替わるように表れたのは、

「……う、ひ」

 ものごっつい美形だった。
 彫りの深い顔立ちは、短い黒髪と、切れ長な目に彩られている。小さな頭に大きな体。長い首、腕、指、睫毛。そして極めつけは、あまねの大好きな緑色の虹彩。ドイツを祖国とする方々とは、こういう顔立ちで当たり前なのだろうか。もしそうだとしたらドイツ旅行なんてとても行けない。

「妙な声を出すな。虫の入りそうな口を閉じろ」

 それは彼が呆れた口調で言うように、かぱりと口が開いたままになってしまうからだ。あまねは「はあ」と、感嘆と返事をない交ぜにした言葉を紡ぎ、むぐ、と口を閉じた。



大したおもてなしも できませんが


本編

00 義務と権利
01 ポスティングサービスに関するお願い
02 愛玩動物との生活
03 ゴミ問題について
04 騒音被害
05 チカン、ダメ、絶対
06 ポスティングサービスに関する疑問再び
07 義務の放棄と権利の失効
08 退去時は30日前までに不動産会社までお知らせ下さい
09 またその際ライフラインは退居後に停止することを推奨致します
10 大したおもてなしもできませんが


あちらの世界はというと

00 その男、拝命す。






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