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01.ポスティングサービスに関するお願い

『休日って、それに入る前の過ごし方次第で充実度が変わりますよね』

 爽やかなフォントの題字がPCモニターに映し出されている。

「――追伸。ダイニングの床にぺたぺた付けられた靴跡を拭いただけで終わった私の、明日以降の連休はいかような充実度だとお考えになりますでしょうか……」

 結局、今夜あまねが読めたブログは、日参しているchoさんの<ビフォー30のアフター20>のみだった。内容は、日本の経済情勢と最近の業界の動向、それとちょっとしたアドバイスを加えた三本立てである。彼女が特に共感できたのはアドバイスの項だった。『私たちの厳しい仕事は減りそうにありません。そろそろ辞めたいと考えている方も多いことでしょう。ここはひとつ、辞表の書き方を検索! ……する前に、貴重な休日を有意義に過ごし、心身を充電してみてはいかがでしょうか?』こんな書き出しで始まった記事を、彼女は靴跡ひとつ拭き取ったら一文を読む、というペースで追った。90分近く掛けて読了し、彼女はすぐにコメント送信欄へとマウスを動かした。無心でキーボードを叩き続けふと顔を上げれば、インラインフレームのシークバーが随分と小さくなっている。それを見て溜息を落とした彼女は、コーヒーを淹れ直して頭を冷やすことに決めた。
 マグカップを片手に長文をコピーし、メモ帳に貼り付けてから読み返した彼女は、これは先方が対応に困るだろう、という結論に至った。マグカップを置いた彼女は再度キーボードを叩き、感想を増やし意見を添え、何度も推敲して形を整える作業に入った。それから、ずいぶん悩んだ末に「返信不要です」と末尾に書いて送信ボタンを押した。今日ばかりはどうしてもchoさんに、もとい、常識ある画面の向こうの優しい推定モンゴロイドに言わずにはいられなかったのだ。

「愚痴っぽいこと書いて嫌われないかな……アク禁にされたらどうしよう……あああやっぱり送らなきゃ良かったかな『今のナシですジャーマンジョークですてへぺろ』とか追加で送信したら誤魔化せないかなあ……」

 送信後もあまねの懊悩は続く。やってしまった、と項垂れて、マウスのホイールを意味もなくころころころと動かす。

『休日の昼食はカフェで優雅に? それとも我が家で寛いで?』

 彼女はその一文で手を止めて、「先生」と呼んでいる検索エンジンを別窓で開いた。

「リゾットが食べたい気分ですよ、と」

 入力ワードを「きのこ、リゾット、作り方」とした彼女の性向は、やはり根っからのウチ向きなのである。



 * * *



 新居を決めるにあたり、あまねが譲れなかった点は以下の通りである。

 ・間取り:2LDK以上、バストイレ別、1階角部屋
 ・家賃:込み込みで手取り給与の25%以下
 ・場所:勤務先から徒歩15分以内

 引っ越しました。そう報告をした際、彼女は上司から「あなたも一応未婚女性でしょう? どうして1階にしたの」と訊ねられた。すぐに「条件に合う物件がここしかなくて」と返事をしたのだが、憐れみを湛えた目で首を傾げた上司はそれをどう受け取ったのだろうか。
 2LDK。それはお客様を招く機会があったときに備え、片付けるべきはLとDKとに限られるありがたい仕様である。更に、物を増やしがちなあまねの生活において、部屋数が多いことも大変重要だ。残るふたつのプライベート空間は、趣味部屋と寝室兼物置部屋に分けており快適至極である。
 巷の情報サイトには大抵、家賃の目安は給料の1/3と書かれている。彼女も駆け出しの社会人だった頃はそれを信じ、それに合わせた部屋を選んでいた。しかし実際のところ、雀の涙から1/3が差し引かれて残った残高は非常に頼りなかった。25%、それはおひとりさま経験値を積んだ彼女がはじき出した彼女なりの適正金額である。そして場所に関しては、お家にできるだけ長く居たいという彼女の思いそのままである。

「牛乳2パックは買い過ぎたかな……ま、いっか」

 勤務先と家を繋ぐ直線上に、野菜も扱うコンビニエンスストアができたのは彼女の予想外だった。年中無休で24時間営業中、そんな店舗が近くにあれば頻繁に通うことになるのも道理であり、彼女は今日も買出しのため足を向けた。彼女にとって多少重い荷物は苦ではない。しかし、好んで重たいものを手に長距離を歩きたいわけでもない。

「やっぱり1階はいいよね」

 荷物の運搬が楽でいいわと頷く彼女は、人様の評価云々はさておき、自分の判断が間違っていなかったことに満足しほくそ笑んだ。
 マンションのエントランスには大型の宅配ボックスと郵便受けが設置されている。彼女が通りすがりに眺めた限り、どの郵便受けからもピザ販売店のチラシが顔を出していた。『106』と書かれた郵便受けには、それらに加えて新聞や、ピンク色の小さなチラシや、横文字で書かれた何かといったものも入っていた。彼女は確認もそこそこに、全部を纏めて引っ掴んでエコバッグに放り込み部屋へと向かった。途中大柄な男性とすれ違い「こんにちは」と挨拶をした。おひとりさま生活を恙無く続けるための努力を彼女は惜しまないのである。
 各部屋の扉には室内ポストの投函口がある。普段使いを想定しておりません、と説明された小さなそれからは、なぜか今日も折り畳まれた白い紙が覗いている。彼女の脳内をまたか、という憤りと、誰がどうしてどうやって、という疑問が駆け巡る。

「……さっきの、ひと!」

 あまねが慌てて振り向くと、自動ドアの向こうに立ち去る後ろ姿が見えた。一瞬だけだったけれど、縦にも横にも大きな体と、ふわふわとした――パンチの効いたパーマをかけた髪は、忘れられそうにない。

「うぬぬ……今に見ておれ!」

 絶対に文句を言ってやる。個人的にではなく、管理人を通じてみっちりきっぱりと。彼女はそう決意すると、素早く辺りを見回した後そそくさと部屋に入った。



 * * *



 彼はいつ来るのだろうか。リゾットができ上がるまでの時間を、冷蔵庫に裏返しで貼り付けられた領収書を見ながらあまねは過ごした。達者な筆と異国語の見事なコラボレーションが生み出した『訪問告知書』は、彼女が何度眺めても解読不可能である。
 あまねは彼に、できることならもう二度と会いたくはないなと思っている。しかし、昨日彼に義務と権利がどうのと大口を叩いた手前、せめて一回は調査に協力しなければ、とも思っている。不幸なのか幸いなのか、今の彼女には伝えたいこともある。

「さっさと来てもらって、ちゃっちゃと終わらせたいな」

 あまねは、鳴るなら鳴ってよね、と玄関方面を睨みつけてから鍋に向き合った。蓋を外すとキッチンにミルクの香りが広がる。それに釣られて、彼女の喉と腹とぴんぽんが鳴る。木べらでリゾットをかき混ぜひと匙口にする。文句のないアルデンテになったことを確認し、火を止めて、そこで彼女の手が止まった。
 ぴんぽーん。

「ま、マジですか……」

 来客モニターに顔は映っていなかった。しかし彼女は、組まれた長い腕を見てそれが誰なのかを悟った。

「いらっしゃい、ませ」

 あまねが案外早いお越しですね、と言うと、「――予定時刻の誤差1分以内だ」と、眉間に皺を寄せた彼が返した。彼女が待っていたようで決してそうでもないような『例のお方』、その再来である。
 入るぞ、と、当然のように足を踏み入れる彼に彼女が慌てて言い募る。

「あの、この部屋は土足禁止にしておりますので、靴は脱いで下さいお願いします」

 彼から返答はない。無言のプレッシャーがあまねを押し潰す。蛇に睨まれたなんとかの心持ちで彼女が固まっていると、ふう、と、さも面倒臭そうな吐息が落とされる。

「狭い」

「は、あ。――ああ! 退きますごめんなさい!」

 あまねが屈みこんだ彼の邪魔にならないよう下がる。彼の靴は編み上げタイプの黒革製ブーツである。脛辺りから紐を解き始めた彼を、彼女は直立不動で待つ。ごつごつとした大きな手が動き、高級そうな靴が片方、また片方と外されていく。ひたり、と床に下ろされた足はこれまた大きい。彼は無言であまねの横をすり抜け昨日と同じ椅子に腰を下ろした。それを見届けてから彼女が呟く。「外国人って、すげぇ」と。彼の腰の位置は背筋の伸びた彼女の胸元まである。玄関にきちんと揃えて置かれた靴は、彼女が履けばロングブーツに変身すること間違いなしだろう。

「何をしている」

 あまねに背を向けたままで彼が言う。弾かれたように彼女もダイニングへ向かい、彼の後ろで立ち止まり、やはり凄いなと思う。

 ――裸足でブーツなのに、ノン・スメル!

 彼を招いたダイニングキッチンは、仕上げを待つばかりとなったリゾットの香りで溢れている。



大したおもてなしも できませんが


本編

00 義務と権利
01 ポスティングサービスに関するお願い
02 愛玩動物との生活
03 ゴミ問題について
04 騒音被害
05 チカン、ダメ、絶対
06 ポスティングサービスに関する疑問再び
07 義務の放棄と権利の失効
08 退去時は30日前までに不動産会社までお知らせ下さい
09 またその際ライフラインは退居後に停止することを推奨致します
10 大したおもてなしもできませんが


あちらの世界はというと

00 その男、拝命す。






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