• 1
  • 2
  • 3

00.義務と権利

 肩に掛けていた鞄をソファに置き、携帯電話を取り出してキッチンに向かい、やかんに水を入れてIHクッキングヒーターの電源を押す。それからはた迷惑なメール――例えば『おめでとうございます! 貴方に○万円が当たりました!』だとか、『久しぶりにメールしたけど……覚えてるかな?』だとか――も、返信の必要な連絡も来ていないことを確認しはあ、と息を吐き出す。
 そうして彼女はシンクに片手を置いたまま項垂れている。やかんがしゅんしゅんと鳴き始めても、ドアホンが来客を告げてもその背中は殆ど動かない。

「ふ……」

 彼女は緩慢な動作でヒーターの温度を下げた手を、白むくらいにきつくぎゅうっと握り締めた。その手にはまだ携帯電話があり、傷ひとつない最新型のそれは少しの汚れでも大変目立つ。指紋、掌紋をべたりと付けたそれをシンクに置き、もう一度深く深く彼女は息を吐く。

「ふ……ふふ、んふふふふ」

 小さな背中が小刻みに震え、次いで室内の空気が盛大に震えた。

「ふへへへへ! 我が世の春よのう!」

 高々と拳を突き上げるその姿は某世紀末な覇者の兄にも見える。もちろんここは荒廃した世界なんかではない。200X年でもない。

「やっぱり最高! ビバ連休! ハラショーマイルーム!!」

 現代日本の地方都市にある、モダンな様式の集合住宅の1階の角部屋。
 そこが「おうち大好きひきこもり万歳!」な彼女の新居だ。



 * * *



 今年が暖冬になるらしいと知ったのは、テレビを見たからでも新聞記事を読んだからでもない。

「今日はどこか更新されてるといいな」

 呟きながら彼女が引き寄せた鮮やかな黄緑色の長方形は、S字を描く黒いダイニングテーブルによく映える。薄い長方形を開けばキーボードが現れ、タッチパッドに軽く触れると真っ暗だった液晶がスリープ状態から復帰した。「手首の辺りが熱くなるから嫌だ」と常々ぼやいている彼女も、このノート型PCはそれなりに愛用している。メインはリビングに置いているタワー型デスクトップPCなので、サブのこちらはスペック二の次・見た目重視で購入したものだ。
 緑は彼女が好きな色だ。ここに入居を決意してから苦節半年、厳選に厳選を重ね少しだけ財布と相談して購入した各種インテリアのアクセントカラーにも使っている。ベースカラーは白だ。天井と壁はもちろんのこと、床もドアも白というのは地方都市の賃貸物件にしては珍しく、それが入居の決め手にもなった。

「あ、choさんのとこブログ更新されてる……へー、円高ってまだ進んでたんだ」

 彼女の情報収集は大半がPCや携帯電話、つまりはインターネットの海を介して行われる。元々世情への興味が薄い彼女にとって、必要以上の情報をだらだらと流されるテレビはあまり好ましいと思えなかった。日々の天気や美味しいカレーの作り方など、求める内容をピンポイントで検索できるインターネットはそんな彼女にがちりと合うのである。

「さすがchoさん……おすすめリンクが神掛かってるわ」

 神のブクマは神ってのは名言だ、と頷く彼女の情報源は、極僅かながら人を介するものを含んでいる。職場の同僚だとか、数少ない友人だとか、である。加えて言うなれば、更新の度互いに一言送り合う仲となった液晶の向こうのヒトも含めて構わないだろう。きっかけは結局インターネットなのだけれども。
 彼女は暖冬の知らせをchoさんのブログで知った。彼――かどうかは実のところ知らない。そういった話題は互いに出さないし興味がないけれど、文章から彼女が勝手に推測しているだけだ――のブログは、時事に沿った内容が面白おかしく時に真面目に書き綴られており、PCブラウザのお気に入り『殿堂』フォルダに燦然と鎮座している。

「あ。これ」

 膨大な情報の中から探し得たそれは正しく宝だと考えているので、気に入ったサイトを見つけることを彼女は「発掘」と呼んでいる。リンクを辿っていく内に運良くお宝を発掘した彼女は、上から下へと軽く流し読みをしてうんうんと頷き、片手でキーボードに触れ最後にエンターキーを押した。

「今日の夜のお供はキミに決定! メインパソ子にURLも送ったし、飲み物を用意して洗濯機を回して……と」

 ノートPCを閉じながらそういえば、と彼女は思う。帰って来てすぐにドアホンが鳴っていたのではなかったか。明日からの連休と、ようやく手に入れた安息の地に浮かれて聞こえないふりをしたものの、確認くらいはするべきだったなと反省する。
 この物件は設計上、訪問者が簡単にドアホンを押せる仕組みにはなっていない。外部の人間が屋内へ入るには、まず建物に入ってすぐにあるパネルで各部屋番号を入力し、次いでモニターを通じて確認をした住人がホールへと続く扉のロックを外すことでようやく可能になる。大都市では当然のこの機能も、彼女の住まう地方都市では殆ど見かけることがない。以前の住居でしつこい勧誘に辟易していた彼女にとって大変ありがたい造りであり、これもまたここへ入居を決めた点なのである。もちろんこのような手順を踏まずに入れる人間もいる。ここの住人と大家、そして管理人だ。
 ふひ、と妙な声を上げた彼女が忍び足でモニターに近付く。彼女は不動産会社の担当が「防音も完璧ですよ」と笑顔で話していたことを覚えていた。けれど、アポなしの訪問を受けたときはなるべく音を立てずそっとドアスコープを覗く、という動作は10年近い一人暮らしを経て習慣になっており、柔軟性を欠き始めた今更修正することなどできそうにない。
 えくぼが印象的だった担当女史の「こちらは大家からのお願いなのですが」の後に続いた言葉を思い出し、彼女の口からまた妙な息が漏れる。冷や汗を拭いつつ意を決してモニターを見れば、暗い画面にぼんやりと白く彼女の顔だけが映っている。
 当たり前だよねあれから何十分も経ってるもんね、と深呼吸をした彼女の目に、室内ポストに投函された印刷物が入り込む。急いで且つ慎重に音を立てないように引っ張り出し、三つ折りにされたそれを広げてみる。

「もー……びっくりさせないでよね」

 彼女がそれを熟読する必要はなかった。とろりと溶けたチーズから湯気が立ち上る写真。食欲を刺激すること、その一点に心血を注がれたカラフルなそれは、デリバリー専門ピザ販売店のチラシだったからだ。
 普段であればすぐにゴミ箱行きとなるチラシだったけれども、今日の彼女の手は中々それを手放せずにいる。先程の訪問が、戦々恐々と待ち構えている『例のお方』ではなかったという安堵が一番の理由である。次いで、休日前なのだという事実から起こるテンションの昂り、写真で脳内補完されるバジルの香り、腹減り。

「ピザ屋の魔の手に落ちるとは、不覚」

 そう呟きながら彼女が向かう先はダイニングだ。携帯電話はそこに置きっぱなしになっていて、やはり何の着信も入っていない。慣れないタッチパネル式の操作に手間取りつつ電話を掛ける。

「ピザの注文をしたいのですが。――えっと、マルゲリータのSサイズひとつ、チーズ増量で。それとハッシュドポテトひとつと、フレッシュほうれん草のサラダひとつ。以上でお願いします。――はい、はい、はい。あ、ドレッシングはいらないです。――はい、初めてです。ええと、ちょっと待って下さい」

 彼女が冷蔵庫の前に立つ。

「お待たせしました。K市八町二丁目――」

 ドアに貼り付けた葉書を見ながら住所と電話番号を告げる。 

「辰田あまね、です。あ、えとですね、ねー、うし、とら、うー、の辰に、田んぼの田で。名前はひらがなです。――はい。はい。わかりました。よろしくお願いします」

 そうして電話を切り、溜息を吐いてぽつりと零す。

「次からは、ネット注文にしよう」

 毎度毎度、面倒臭いんだよね、と。



 * * *



 ぴんぽーん、と音がした。
 メインPC前に座りコーヒーを啜っていた彼女――あまねはびくりと跳ね、慌てて液晶画面右下の時計を見る。

「え、なに、今時のピザ屋ってこんなに早いの?」

 ピザ屋のお兄さんは、少々滑舌の宜しくない話し方で配達予定時刻を教えてくれた。『お届け時間はぅんじゅっぷん後、はちじんじゅっぷんです』だったろうか。聞き返すのも億劫に思えて、ピザ屋のサイトで確認しようとPCに向かっていたところだったのに。そのくせ金額だけははっきりと言うんだから。そんなことを考えながらダイニングテーブルに置いておいた代金を掴み、あまねは玄関に駆け寄った。そうしてドアノブに手を掛けたところでふと思う。そもそもどうしてピザのチラシが投函されていたのだろうかと。
 ぴんぽんぴんぽんぴんぽーん。

「はいはいはーい!」

 彼女にとって、その疑問はこの生活の平穏を守るために重大な意味があった。けれども目の前でけたたましく鳴り響くドアホンは考える時間を与えてくれない。モニターとドアスコープを眺める時間もまた然りである。

「お待たせしまし……た」

「遅い」

 低い声色で短く答える訪問者がピザを持っている様子はない。

「時間が無い」

 そう言って玄関へ足を踏み入れるその人物、いやそのお方は。

「い……いらっしゃいませ『管理人』さん……」

 『例のあの方』こと、このデザイナーズマンションの管理人、その人であろう。



大したおもてなしも できませんが


本編

00 義務と権利
01 ポスティングサービスに関するお願い
02 愛玩動物との生活
03 ゴミ問題について
04 騒音被害
05 チカン、ダメ、絶対
06 ポスティングサービスに関する疑問再び
07 義務の放棄と権利の失効
08 退去時は30日前までに不動産会社までお知らせ下さい
09 またその際ライフラインは退居後に停止することを推奨致します
10 大したおもてなしもできませんが


あちらの世界はというと

00 その男、拝命す。






Template:Starlit