きみの傘になるよ
「これで……いいか、なあ?」
呟いたあまねは結局また最初からやり直すことにした。
クローゼットと鏡の前を行き来すること十数回。これは彼女の記録を更新する回数である。前日分を含めるならば更に倍率ドンである。昨日の夜、風呂上がりにそういえばと思い出し慌てて始めたはよいものの、考えていた以上にどうにも上手くいかない。
「女子力なんて培ってこなかったもんねぇふひひ……」
色も形も様々な服はどれもがきらきらと輝いている。それらへ向かってもう降参ですと平伏し、あまねはベッドに腰掛けて項垂れた。
その日はそちらへ行っても構わないか。彼がぽつりと言ったので、あまねは軽い気持ちでうんと答えた。
彼――クラウスは薄く微笑むと立ち上がり、彼の自室へ向かったかと思うと何やら大きな荷物を抱えて帰ってきた。平たい箱と紙袋と小さな包みと、力持ちで長い腕の彼が二度往復して運んできたそれらは全てあまねの前へ置かれた。
「リヒトがお前に渡せ、と」
「リヒトさんが? なんだろ……中、見てもいい?」
そう聞くとクラウスが頷いた。「――すご!」平たい箱を開いたあまねが目も見開き叫ぶ。「なにこのドレス!」
開くものどれからも小市民には勿体無いくらい煌びやかな服飾品がわんさと出てきた。瞬く間にあまねの前にはバッグにアクセサリーにと、世の女の子が小躍りして喜びそうな宝の山ができた。全ての包みを開き終えたあまねはけれど、手のひらサイズの柔らかい不織布だけは開くのをやめた。
「それは確認しないのか」
何事にも目敏いクラウスが不思議そうに言った。あまねはむにゃむにゃと言葉を濁し、服の間に隠すようにして「で、これどうすればいいの?」と強引に話題を変えた。
「贈り物だそうだ。それを着て遊びに行け、と言っていた」
なるほどと、彼の兄たるお洒落な皇帝陛下の顔を思い浮かべあまねは小さくなる。私があまりにも適当な装いをしてるから気にしてくれたのかな。恥じらいを隠せずあまねが呟くと、コーヒーを満喫していたクラウスが珍しく声を上げて笑った。「違う」
「あれに指摘されたのは私の方だ。それに、リヒトからではないらしい」
じゃあどなたさまからですかと尋ねたけれど、クラウスは答えずコーヒーを飲んだ。あまねが「ね、教えてよ。お礼したいよ」と詰め寄ると、マグカップをテーブルに置いた彼が向き直り「では」と言う。
「隠したそれも広げて見せるなら、」
「え……や、やっぱり遠慮しますごめんなさい」
口角を上げたクラウスを見てあまねは歯噛みした。絶対にこの男、アレが下着のセットだと分かっていやがる、と。
さてさて。そんな経緯があって本日はクラウスをこちらにお招きする。あまねが彼と共に遊ぶのはここでもあちらでも初めてではない。ただ、あまねが足を運ぶのが大概であり、それはひとえに彼が多忙を極める故である。
そんな彼からこちらへ来たいと言われたのは初めてのことだった。見惚れるような笑顔で「楽しみだ」と言われたのも初めてのことで、あまねが服とパンツとブラを決めるべく、こんなに時間を掛けているのもまた然りである。
ベッドに腰掛けたまま時計を見上げ、あまねはふぎゃっと叫んだ。よしんばドアが開かれたとしても室内は見えないけれど、バスタオル一枚はさすがに色々とまずい。
生家に戻ったその足でパーテーションを購入し、ドアの前に設置し始めた娘を見て両親はどう思ったのだろうか。不便極まりないものの、あちらとこちらの玄関がこの部屋のドアらしいのだから仕方がない。
近いうちに、父と母へも絵空事のような現実を伝えなくてはならない。あの二人のことだ。きっとどうにかなるだろう。そんなことを考えながらあまねは服を身に着けた。約束の時間まで三十分を切っていた。
「石造りのこれは何だ?」
「ええとねちょっと待って……鳥居とは。神様と私たちの住む場所を分けるものです。だって」
あまねはスマホを手にクラウスを見上げて答えた。さあ次の質問は何だ、どんなことでもこの『先生』が教えて下さいますぞ。印籠の如くスマホを突き付け意気込んで、あまねははあと溜息を吐いた。自分の国なのに、改めて問われると分からないことだらけである。
浅学でごめんねと謝ると、彼は真面目な顔で首を振った。
「知識とは、問われて考えて漸く自分のものとできる。私もお前からインテグラルのことを教わっている最中だ」
「クラウスが私から?」
訝しむ声に彼は頷いた。あまねは目の前の勤勉な皇弟殿下に倣い、もう少し日本のことを知ろうと決めた。「嬉しいな」
「何がだ?」
「今日はいっぱい新しい発見がありそう」
「そうか」
踵の低い靴で石畳を踏み彼を先導するように歩く。見上げた彼の上に広がる空はどんよりと重く、いつ降り出してもおかしくない雰囲気だった。弁当を忘れたとしても傘を忘れてはならぬ。先人がそう伝えるほどに、あまねの故郷は雨が多い土地なのである。車を降りる前「振るかもしれないから」と渡した傘はクラウスには小さかっただろうか。
「アマネ、ここでは何をすればいい」
問われてはっと顔を上げる。クラウスは賽銭箱の前で腕を組み立っていた。白いカットソーにキャメルのチノパン、濃紺のカーディガンに飴色の革靴。平素の彼と程遠い本日の装いはあまねの心臓に大層悪い。
「えと、ね」
対してあまねはあまり変わらない。あまねがよりどりみどりの中から選んだのは結局、膝丈のプリーツスカートと丸襟のシャツ、そして薄手の五分丈ニットだった。トップスは何故かクラウスと同じ色合いだった。出迎えてすぐお互い固まったけれど、もうどうにでもなれとやけっぱちで車に乗り込んだのはやはりまずかっただろうか。
「挨拶と、日頃のお礼と、決意表明……かなあ?」
クラウスが目を細め軽く頷き目を閉じる。右隣の彼をちらりと眺めてあまねも目を閉じる。
――こんにちは神様。ええと、ええと。
「初めてお目にかかる。クラウス・アウス=シュヴァルツ・インテグラルだ」
声に出さなくても大丈夫。あまねは慌てて彼を見上げたけれど、その横顔に酷く真剣な色が見えたので声を掛けることが憚られた。平日の真昼間が幸いしてか、外拝殿には自分たちしかいない。クラウスがいいなら良いか。あまねは再度目を閉じる。
「まずは奉謝を。これが私と出会うまで健やかに育んで貰えたことに。それから、決意表明を。私はいずれこれを妻とする」
彼の言葉は熱を持ってあまねの身体を駆け巡った。この男、一体何を言い出すのだ。
「私の国はここと違う。大きな戦は終わったがその爪痕は未だ癒えたとは言えず、人同士の諍いも獣とのそれも絶える様子がない。聞くに、この国は戦が絶えて久しいのだろう? そんな国で育った女をあの国へ連れていくことには……正直なところ不安の方が大きい。私自身、軍に籍置く一人として最前線に赴いている。いつ死ぬかも分からない」
あまねは閉じていた目を一層固く引き瞑った。クラウスはあまねの前で仕事の話を殆どしない。なぜと問うたところ、機密云々ではなく聞かせたくないだけだと彼は言った。
時々繋ぐようになった彼の左手を思う。彼は「潰しそうだ」と言い、怖々と握ってくる。でけェ手で剣やオレらを動かす仕事だぜ。料理友達はそうあまねに教えてくれたけれど、妹を見るような眼差しがこれ以上は言わないと告げていた。
「これを危険に晒すことは貴殿の本意ではないと思う。が、私に出来得る限りの力で守ると誓う。それに、私にできないことは兄や私の知己が助けてくれる。これは何故か、あちらの人間の胃袋を掴むのが得意なようだ。これが困れば腹を空かせた奴ら――先ずレオンハルト、次いでヤトが名乗りを上げる。どちらも指折りの猛者であり、とりわけこれの作るものに目がない。だから安心してくれ」
クラウスがふ、と笑う。あまねも笑う。「ただ、」
「私はこちらに何の寄る辺も持たない。不遜にして都合のよい願いだが、これがこちらで過ごすときはこれまでと変わらず見守ってやって欲しい。無論、私がこれの傍にいるときは休んでくれて構わない。こちらでも――」
ばちり、ばさり、と音がした。クラウスが傘を開いたらしい。次いでビニールを弾く音がした。ぽつぽつと聞こえていたそれは次第に間隔を狭めていく。目はとっくに開けていたけれどあまねは顔を上げられなかった。歪な円で囲まれた足元は濡れてもいないのに滲んで見えた。
「雨槍程度は跳ね退けられる。だから」
泣くな、と言われて頷いた。冷えるから帰ろう、と言われたけれど立ち止まり、鼻水を啜りながら手を合わせた。
――神様。私にできるのは日本の一般的なご飯を作ることくらいです。あっちじゃ他に何にもできません。頑張って頑張って作ります。だから彼が、いつまでも私のご飯を食べてくれるように、怪我しないように、無茶しそうになったら怒ってやって下さい。宜しくお願いします。
遠くで雷様が答えた。クラウスがあまねの頬を撫でた。
「アマネ、誕生日おめでとう」
「あり……ありがと」
しゃくり上げながら「憶えてたんだ」と言うと、呆れた様子の彼から「阿呆。忘れるか」と返された。
「生まれたとき、雨の音が激しかったから『アマネ』なのだろう? 本当に雨とは縁が深そうだな」
目元を拭いつつクラウスを見上げたあまねは焦った。傘を斜めに差してくれていたらしい彼がずぶ濡れになっている。
あまねは二歩寄って傘を垂直に持ってもらい、早く車にと彼の腕を引っ張った。と、今度は彼が立ち止まり動かない。
「アマネ」
「何!? ちょ、とにかく歩きながらの方が良くない!?」
そうかと答えたクラウスが踵を返し言う。「今更だが」
「私と結婚を前提に交際して欲しい。愛している」
それと着替えたい。リヒトの残務も確認したい。悪いが一旦あちらへ戻るぞ。朗らかにそう宣ったクラウスの脇腹目掛けあまねは渾身のエルボーを叩き込んだ。「えぇんな!」
「おまん、それは立ち止まって言いまっし!!」
横殴りの雨を眺めながらシートベルトを締め、デートの続きはまず公園でランチをと提案した。彼も同意見のようである。あまねのインテグラルお天気予報は滅多に外れないのだ。
「あと、喜んでお受けします。クラウス大好き。愛してるよ」
信号待ちの車中でさらりと言えば、水も滴る隣の男はぶっ、と吹き出し真っ赤になった。してやったり。あまねはにししと笑い、上機嫌でワイパーの速度を上げた。
了
大したおもてなしも できませんが
本編
00 義務と権利
01 ポスティングサービスに関するお願い
02 愛玩動物との生活
03 ゴミ問題について
04 騒音被害
05 チカン、ダメ、絶対
06 ポスティングサービスに関する疑問再び
07 義務の放棄と権利の失効
08 退去時は30日前までに不動産会社までお知らせ下さい
09 またその際ライフラインは退居後に停止することを推奨致します
10 大したおもてなしもできませんが
あちらの世界はというと
短編